諸葛孔明の空城の計で敵を惑わす

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第32計:空城計

野村宏

今回は、諸葛孔明が用いて有名になった空城計をお話します。

攻めてきた敵に対し、城を守る側が守りを全部捨て、あけっぴろげにする計

野村宏

三国志の中でも取り分け有名な空城計は、相手を疑心暗鬼にさせる危険きわまりない計です。

今年の大河ドラマ「どうする家康」にもでてきましたが、この空城計は、成功率が低く、失敗したときは全滅するしかありません。なので、この計を使わざるをえないような状況に追い込まれないことに全力を尽くすべきです。

野村宏

最後の最後の計なので、これを使うときは一か八かです。

これを使う状況に追い込まれる前に、せめて第36計逃げるにしかず(走以上計)ができる、すなわち「逃げる」時間的余裕だけはなんとか確保しましょう。

諸葛孔明が司馬懿仲達の大軍に対し、逃げるための時間稼ぎをした作戦

野村宏

蜀の諸葛孔明は、祁山という場所で魏の司馬懿仲達と激戦をくり広げていました。

この戦いで有名な言葉が生まれます。「泣いて馬謖を切る」です。

孔明が、戦略上の重要な拠点である街亭という場所の守備を、自分がその才能を愛し目をかけていた馬謖に任せます。そして、街亭のふもとにある水源を死守しろと命令します。

しかし、自分の才覚におぼれた馬謖は、孔明の命令を無視し、街亭の山の上に本陣をおいてしまいます。これを見た仲達はひと目で「おろかな奴よ」と言い、大軍をさいてふもとの水源地を急襲し、制圧してしまいます。

おろかな馬謖は水を失い、数日で全面退却に追い込まれます。※後日この失敗と軍令違反を責め孔明が馬謖を切ったのが「泣いて馬謖を切る」の場面です。

この街亭を失ったことで、孔明の蜀軍も大至急の撤退を余儀なくされます。そのため、さしもの孔明も自分自身の退路を確保する余裕さえなかったのです。

この時、孔明がいた西城に仲達の15万の大軍が急襲しました。そこで仲達が見たのが、城門をすべてあけっぴろげた西城のすがたでした。

しかも、城門の内外を大勢の人がほうきで掃き清めていて、城楼では、孔明が静かに座り琴をひく音色があたりに流れていました。

これを見た仲達は、いままでさんざん孔明の策にかかり、痛い目に数限りなくあってきたトラウマから、何か孔明の策があるとおびえ、自軍に攻撃を命じることができず、いったん撤退を命じてしまいました。

この魏軍の撤退で、わずかな時間の余裕を得た孔明は、蜀軍をいそいで撤退させました。いったん撤退した仲達も、不審に思い、再度、西城を攻めました。

すると、城内には人っ子一人いなかったのです。孔明は、すでに蜀の領内まで逃げ去ってしまった後でした。

これが有名な、諸葛亮孔明の「空城の計」です。空城の空は「からっぽ」を意味します。なにもない空っぽだとあえて見せて、本当は待ち伏せの軍を用意し、自分たちを計にかけようとしているのではないか、と疑心暗鬼にさせ、時間稼ぎをする計です。

徳川家康も武田信玄との三方ヶ原の戦いで敗れ、最後に空城計で命だけは助かった

野村宏

徳川家康の大ピンチのひとつとされる「三方ヶ原の戦い」です。

武田の騎馬軍団の驚異的強さに圧倒的な敗戦を喫し、家臣の身代わり討ち死になどにより、なんとか浜松城に逃げ帰った家康は、浜松城の城門を開け放たせ、城門内外を掃き清めさせ、灯篭をともさせた、と言われています。

これを見た武田軍は、諸葛孔明の空城計ではないか、と総攻撃を躊躇し、撤退したといわれています。

私が思うに、これは家康の戦略家としての名声を高めるために、諸葛亮孔明の古事を知って、自分の危機を救った名将、というイメージを高めるための作りばなし、と思います。

実際は、信玄は、織田信長の軍の動きなどを懸念して、いったん撤退した、というところが事実のようです。

空城計は追い詰められたときの一か八かの計

野村宏

この状況になる前に手を打つべきです。

36計の中で、この空城計が、私は一番使いたくない計です。

相手が疑心暗鬼になって撤退してくれるなんて、確率が高いとは思いません。これを使うしかない状況に追い込まれる前に、せめて逃げる余裕がある状況は確保しましょう。(これが第36計、逃げるが勝ち「走以上計」です)

野村宏

このブログが、リタイア間近、あるいはすでに年金生活にはいられた方向けに、経済的なリカバリーをする方法を紹介しているのは、この逃げ道を確保するためです!


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